2002年8月 確かな偶然 ■一時帰国報告
 こんにちは!
 あぁ、二ィハオでもなく、タシデレでもなく、ナマステでもなく、サワディークラッでもなく、サインバヌーでもなく、Hello−−でもない!
 こんにちは。ぁあ、こんにちは。お久しゅうございます。ただいまさしでございます。
 やっとのこと帰国しました。

 とは言っても、実は2ヶ月ほど前に帰国していたのですが、帰国後すぐに働き始めてしまったことと、携帯電話とパソコンを持たない者にとって、日本は大変メールを送りにくい国でつい報告が遅れてしまいました。

 言い訳はさておき、今僕が勤めている会社とは、前回と同じ旅出発前に勤めていた「障害者福祉センター」です。マザーハウスでの経験により、意識の中で今までよりももう一歩、障害者に近づくことのできた自分には、大変身になる、仕事なのに心休まる場となっています。毎日勤務中、爆笑しているこの環境は、社会的不安定な僕にとって私生活以上に落ち着いていられるような気がします。
 時間どおりの決められた生活、そしてなにより定期的に振り込まれる一定の収入、こんな安心できることってそうないですよね。仮に蓄えがそこそこあったとしても、やっぱり収入の無い生活とは落ち着かないものです。

 帰国後の感想。
 何事も回数を積めば免疫というか対応力が身についてしまうもので、前回の長期異国生活からの帰還時のように、
「わぁ、日本人だらけ!」
「看板が全部日本語だー」
「みんな、信号守ってるよー」
といった、日本のあたりまえに対しての激しい驚きは、ほとんど無く、
「来たか、日本!」と、安心とも恐怖ともことなる緊張感がよぎると同時に、
「お家に帰るまでが遠足ですよ」と校長先生のキメ台詞を思い出し、
「とても最終目的地に着いたとは思えない、今はまだここも通過点」といった、次の旅立ちを予感させる何色かよく判らないレールの感触を再認識しました。

「今回の旅では、いったい僕の中の何がどう変わるのだろうか?」
 今回の旅立ちの時、行きの船の中で浮かんだこの問いに、答える時が早くも来てしまいました。

 結論から言うと、基本となるものは何も変わってはいません。
 ただ、体験と共に知識を付け、対応できる枠を広げたこと。
 と、「死」や「宗教」や「業」といった身近になかった世界の存在を認識したこと。
 と、そして事実上、旅人としての経験値を上げたこと。
 この3点ぐらいです。

 今までにもよく考えていたことですが、
「もし、今回自分が経験したことを経験してなかったら・・・」と仮定してみると、いつも少し怖い気もしてきちゃいます。
 おそらく普通に生きていく中でも、他のきっかけにより似たようなこと学べるんじゃないかな? と思うし、何か別の面白いことを学べたと思います。ですが、今回感じ得た事、ひょっとしたら、こんな事は考えもしなかったんじゃないかな? と思うと、僕の生涯において僕らしい順序で経験できたこと、勝手に嬉しく思っています。
「どっかで同じ様な経験踏んだかも・・・」
「いつかはそうゆう世界のことも意識したんじゃないの?」
という予想や可能性の問題を超えた
「今、経験を踏んだ」という事実。
 若い自分には感じ取った事のほとんどを表面化できずにいるけれど、過ちを犯した時や何か刺激を受けた後に気付くことの枠が広がったような気がします。

 たいして変わっていない僕にも幾つかの分岐点はありました。
 ヨガや武道や医療やガイドや福祉などの‘縁’を感じられるジャンルに目標を絞り、その道に漬かってしまおうか・・・とか、国際結婚もいいかなぁ? とか、異なる思想を持つ人達から影響を受け、自分もその人達のようになった方がいいのかな? とか、訓練により気にかけていたベクトルを変えることで、自分のキャラクターまでも変わってしまうほどの効果があった時とか。(例:ヨガの呼吸を意識することによって気持ちも落ち着き、物事に動揺しにくい状態を保つことに成功したが、それによって話し方もゆっくりとなり、音もわずかに低くなった。視界は広がるが、気にかかる点が狭まった。いわゆる落ち着いた人の状態。しかしそれにより、持ち前の‘キャラ’というか、ペラペラと話をする僕のおちゃらけた部分が削られたことに気付いた)

 このように、何度か今の自分から変わりかける機会はあったのですが、独自の方法で 擬似体験に夢中になった小説の本を‘パタン’と閉じるように戻って来ました。

 道を探しながら、己を鍛える旅。
 その旅の中で見つける「人生のスタイルが変わりそうな道」。
 でも、その道にはまだ進まない。僕がしていることはアホなことでしょうか?

 アホついでにもう一つ。
 年月も流れ、特に日本の中では社会的選択肢が狭まっていく中で、選択肢を広げる旅をする。
 結果はどうあれ「鍛え上げられていく過程に悔い無し!」と、アホなりに満足するであろうが、
「俺はアホか?」の問いに、
「アホではないが、少なくとも親孝行ではない」と答える偉大で平凡な親と、
「あんまり危ないことばかりしないで!」と心配してくれる大切な友人達のことを想うと、外で自分だけ満足しているわけにはいかんのです。

 もっとどアホなら、こんなことに悩まされる事無く、スッタカターっと我が道進んでいくであろうに。
 何事も型になる前の中途半端が、辛いものです。

 おそらくもう一回、日本を離れることになるでしょう。
 何の根拠も無いのですが、それが今のスタイルでの最後の旅になるような気がします。

 インド「アガスティアの葉」の予言で、僕の葉にはこう書いてありました。
「あなたの人生は、仕事に迷う人生ですね。27歳で仕事(目標)が見つかり、それに向けてのトレーニングが始まる。29歳で仕事が決まり、とりあえずの目標が達成される」と。

 こんなの意識してないよ。そう口では言ってみるが、ちょっと気になる26歳。
 それと同時に、そうなっちゃいそうでちょっと悔しい青二才。

 世界を歩く僕の旅も、まだ中途半端。

 今回、旅の途中、あることを特に気にかけるようにしてきました。
「数日前、自分は何を考えていたんだろう?」ということを。
 何か一段落つく度に、数日前、数週間前の自分を想い返していました。
 するとそこには、
「この次の場所へ、上手いこと行けるだろうか?」と不安を抱えてた自分と、
「次はいったい何が起こるのだろうか?」と期待に胸膨らませた自分がいました。

「何日までにあそこまで、これだけの予算ではたして行けるだろうか・・・」
 日本や一部の先進国では、行きたい所には問題なく行くことができますが、アジアやその他の後進国ではそうはいきません。

 移動における問題は、お金と時間に余裕があれば問題と感じなくなるかもしれませんが、険しき道を選択する者にとって、‘条件’は問題のレベルを調節するものであり、これを難易度の高い方へレベルを上げれば上げるほど、自分自身のレベルも上がるような気がするので、限界まで高めていきたいのです。
 なにはともあれ、僕の旅において移動は大変骨が折れ、その分不安要素ともなるのです。

 そんな不安が一瞬にして消えて無くなる時とは? ・・・そう、目的地に無事着いた時です。
 あったりまえのことなんだけど、おもしろい一瞬です。
 不安だったこと、一瞬に消え、また次の不安浮かぶ。
「この次の場所には、はたして無事に・・・」ってね。
 この不安は、さっき消えたものとまったく同じ系列のもの。

 もちろん不安は移動のことだけでなく他にも沢山あります。
 ただ、旅先で短い周期で繰り返されるのが移動に関しての不安だったので、一例として挙げてみただけのことです。

 不安、浮かんで…消えて、また浮かんで・・・消えて・・・、
 そんなことを何度も繰り返していたら、この‘不安が消えた一瞬’に気付くようになったのです。
 移動に関してだけでなく、他の不安に関しても同じように「あっ、今消えた!」
と、今までサラっとながしていたようなことだったのを毎回確認するようになりました。
 そしてその後も、前もって自分の不安要素を認識し、不安が消える度にその一瞬を意識してきました。
 すると・・・ ♪! レベルアップのファンファーレが鳴りました。
 不安が浮かび上がって来ても、直ぐに未来の自分が吐く‘安心のため息’を耳にすることができるようになったのです。

「不安は消える!」
 そう強く信じることができた時、いつの間にやら不安は少し軽くなりドキドキを楽しむことさえできるようになっていました。
 ちょっと楽観的になったということなのでしょうか?
「あっ、ドキドキしてきた!」という受身よりは、
「来たな、ドキドキ」、そうかかって来いよと言わんばかりの迎え撃つ姿勢。

 なんだか試合の時みたい。でも、こなした数がやっぱりちがう。
 疑い深い僕が信じれたのは、ただ数をこなしただけのこと。
 浮かび上がる「本当に消えるのかな?」は、磨り減った自慢のトレッキングブーツでフニュッ!

 そう言えば、今までの生涯の中で、今でも消えてない不安なんてないんだよね。
 消えた証拠。

 もう一つの、
「次はいったいどんな事が起こるのだろうか?」は、不安とは全く逆でどちらかと言えば、
「何か起こるに決まってんだから、それはどんなことだろうな?」といった、既に敷かれたレールを意識し、何かに備え待ち構えるような気持ちでした。

 期待はいつも思い通りにはいかないけれど、期待通りのたしかな手ごたえ。

「次の場所では、きっととんでもない事件が起こり、そいつに巻き込まれちゃって、ハラハラドキドキのプチスペクタクルを体験しちゃうんだけど、最後には必ずハッピーエンドで。んでもって、その中で出会い一驚を喫した仲間との涙の別れが・・・」

 そんな物語のような、子供じみた夢を、人としての器を広げる旅の中で浮かべる。

 じゃぁー、実際はというと・・・ 結構起こっちゃうんですよ。プチスペクタクルが。

 ひょっとしたら、そう思い込んでるだけかも? そんなこと偶然だよ!って言われちゃうかも?
 でも、いいんです。自分がそう感じられたのなら、それからいいこと学べます。

 だから、「偶然だろ?」には「うん、偶然だよ」と答える。
 偶然・・・でも、そのように時を過ごせたという事実。偶然雑じりの面白ライフ。

 なんだかんだで、誰でもけっこうこうゆう生活を送っていると思います。
 他の人より自分がちょっとだけ得してるんじゃないかな? と思う点は、移動生活を送っていること。
 ただ、それだけです。
 一つの話には、必ず一つ‘オチ’を求めてしまう僕の性格が、一つの場所に対し必ず一つエピソードが生まれることを望んでいます。
 そんな願いが、ワクワクでキョロキョロしながら距離を惜しまない僕の足に力を与え、出会った人や旅運にも影響しているんではないか、と勝手に思っています。

 そんなこんなで、予定には無かったハラハラドキドキエピソードを繰り返して行くと、人とは欲張りな生き物で、次にも、そのまた次にも、エピソードが生まれることを期待してしまい、いつのまにやらエピソードが生まれることを前提にその土地に向かうようになりました。

 いちエピソード終わり、別れ下手な僕はカッチョイイ別れの言葉も出せぬままサラッと別れを済ませ汽車かバスに乗る。‘別れの曲’は、その章のエンディングテーマへと変わり、興奮冷めやらぬまま緊張が解けたのか睡魔が襲う。いつも僕の旅立ちの前夜は、なんやかんやで寝てられないことが多いのです。僕の性分、別れの手紙には人一倍時間がかかる。

 防犯のため、そしてその国を見るため、移動中は寝ない。これ、旅先での習慣。
 訳ありの赤く腫らした目で、キッっと視線を深くかぶった帽子のツバ越しから進行方向へと向けると、遠くの空にはもう既に次の章のオープニングタイトルが浮いているのが見えるのです。
 視力の低い僕には、何て書いてあるのかまだ読めないけど。
 眼を細めて見ると・・・、ぅーん「まさしくん、ついに・・・できちゃった結婚!?の巻」って、
ぎょぉええぇーーぇー!!! みたいな。 んなわけねっつーの。

 こんな生活をしていると自分の人生、ストーリーはあらかじめ決められているように感じて来ちゃいます。自分の足でせっせと作っているつもりなのにねぇ。
 これが‘運命のレール’ってヤツなのでしょうか?
 きっとそうです。うん、そう思うことにしました。

「おそらく自分はここで、この一物語に首を突っ込むことになってたんだろう」
「なんだ、結局はここに来ることになってたんだ」
「多分、そこへは行くことになるよ」
「やった! あの時の経験がここで生きた」
「やっぱり、この人に再び会えた」
「危ない危ない、あっちに行かなくてよかった」
「この人とは、長い付き合いになりそうだ」
「ほらっほらっ、おもしろい話が転がって来た」
「よしっ! 動く時が来た」
「この人が、僕のここでの相棒か」
                     ・・・etc。
 一つ一つは、何処にでもある話、
 全部会わせて回数増やしても、何処にでもありました。

 こじつけ・・・ですか? 後でこじつけるのも、けっこう楽しいですよ。
 嬉しいかな悲しいかな、過去の経験はバッチリ焼きつき変わらないのです。

 これからの先を想う時、過去を振り返る時、好きな時にいつも足裏に‘レール’の感触が 感じられるようになりました。
 疑い深い僕が信じる気になったのは、ただ、数をこなしただけのこと。

 僕はこのレールの上で起こる事を、‘たしかな偶然’と勝手に呼んでいます。

 大変都合のいい未来、‘たしかな偶然’が起こる前提での僕の旅計画。

 問題に首を突っ込んで行く旅は、不安と期待の宝庫。
 予想以上の場所は、数少ないけど・・・、予想以上の出来事ばかり。
 いつも先はわかりません。
 繰り返し浮かび上がる不安と期待。それらが過去のものとなった時、僕らは直ぐに次の事に目を向ける。だから、その都度思い出すように心掛ける。
「数日前の自分は、どう思っていたんだろう」ってね。
 まだ、語らなくていい、答えなんか出さなくたっていいから、ただ気持ちを整理する。

 そんなことを特に今回気に掛けていました。

 不安は消える予定で・・・  楽しいことが起こる予定で・・・
 しだいにこれらは、‘あたりまえ’へと変わっていくのです。
 たいへん良い流れで‘あたりまえ’に対してのレベルが上がったと思います。

 いいのか悪いのか、‘あたりまえ’だけでは満足できないのが、この欲張りまさし。
 必ず何か‘プラスα’を求めます。
 何が‘プラスα’となるかは、まだ旅に関しては見つかっていません。

「自分らしく生きる」ってのが、高い次元での‘あたりまえ’なら、
「他の人のためになる、影響を与えている」ってのが僕の中での‘プラスα’ってなとこでしょうか?

 自分の欲求と他人の欲求が噛み合う。自分に合ったジャンルで腕を磨いていくことが、他の人にもいい影響を与えていくことに繋がれば、この上無しの理想ですよね。

 よしっ! その理想を目指します。

 ‘プラスα’にはいつも骨が折れます。
 でも、もっと難しいのは‘あたりまえ’のレベルを上げることだと実感しています。

「必要なのは‘プラスα’、重要なのは‘あたりまえ’」

 あれっ? 言ってる事が、学生時代の時と変わってないや。ホントいいのか・・・悪いのか・・・。

「ちょーっとアンタ! 日本でろくに定職にも就かないで、おまけに心配を掛けるような事ばっかりして、なぁーーにが‘あたりまえプラスα’だ!? あたりまえの事、何にもできてないんじゃないの! 大口ばっかり叩いて」

 あ、あ痛ぁー・・・。ちょっ、ちょっと、もうちょっと待ってて。
 出遅れた! と言われるこの数年で、追い着けないくらいの経験を積んでみせますから・・・ おっとまた大口が・・・。
 リスクがリスクにならないように・・・でしたっけね、はい、がんばります。

 いつにもまして、能書きが長くなりました。
 それではこれにて、
 SEE−−−YAAA−−−−−−−    アジア編 完
                     FROM まさし

P.S サイババの出した聖なる灰‘ビブーティー’、
「欲しい人は、家まで取りに来てー」っと言っておいたのですが、
もう全部無くなりました。あしからず。