2003年6月 トータスの誇り ■オーストラリア〜一時帰国編 おまけ グアム編
 こんにちは!
 ‘陸路でオーストラリア’を目標に東南アジアをタイから南下していた まさしです。

 オーストラリアから目と鼻の先である東チモールまで来れたものの、オーストラリア行きの船は無く渋々飛行機を使って入国することになってしまいました。
 悔しさは隠せないけど、ここは コキャッ と頭を切り替えて、
「わーいっ、愛しのオーストラリアァー」
と前向きに、これから吹き込んでくる刺激に対してきっちり感受していけるように‘ハグ’用の準備体操をカッポンカッポンしていました。

 入国した場所はノーザンテリトリー州にある通称‘トップエンド’のダーウィンです。解かり易く言えばオーストラリアの左上です。
「オーストラリアは僕にとっては安全地帯さっ」
と舐めてかかっていたど初っ端、いきなり面倒なことに巻き込まれました。

 飛行機を降りて入国審査を受けようとした時でした。僕だけ別の場所に呼ばれて厳しい尋問が始まりました。よく見ると乗客の中でアジア人は僕一人。他のオージー(オーストラリア人)達はほとんど顔パス状態で抜けて行きました。僕は風貌が少しだけ怪しいため、こういう事には慣れっこになっていましたので、
「はいはい、どうぞ気の済むまでお調べ下さい」
と荷物を自分から出し始めたのですが、どうやら検査官の注意は‘僕自身’に向いていていました。
「オーストラリアに来た目的は?」
から始まるお約束の質問にそれなりに答えた後、次第に本題に入って行きました。

「なぜ、東チモールに行ったんだ?」と。
 最初はただ「観光です」と答えたら、
「そんな訳無いだろ!」
と間髪入れずに突っ込まれました。
「陸路&航路でオーストラリアを目指して南下して、東チモールまでは来れたけどオーストラリア行きの船がなかったので諦めて飛行機で飛んで来たの」
 ありのまま答えたつもりが、全く信用してくれません。
「陸路&航路? なんで最初っから飛行機を使わない? おかしいじゃないか、怪しい奴め!」
 う〜ん、確かにその通り。
「はい、こだわりです!」。
 全く聴く耳無しの検査官。
「なんだ、このパスポートは? なんでこんなにも変な所ばかり行き来しているんだ? 怪しい奴め!」
「変な所とは失敬な。興味深い所と言ってほしいな」
 相変わらず、聴く耳無しの検査官。
「いつ日本を出てきた? どんなルートでここまで来た?」
 正直に最初っから説明すると、
「なんでそんなルートを通ったんだ? 現地で何をしてた? まったく怪しい奴め!」
 あーぁ、めんどくさっ。
「クレジットカードと所持金全部出してみろ。このクレジットカードはいくら入ってるんだ?」
「このクレジットカードは家族会員のカードで家族も使用してるからいくら入ってるかなんて判んないよ。それにこれは非常用で基本的に僕はこのカードは使わないようにし・・・」
「なに!? 自分のクレジットカードなのにいくら入ってるか知らないだと? ますます怪しい奴だ!」
と聴く耳もたずの検査官は、仲間を呼んで本格的に調べるモードに入っちゃいました。

 無理もありません。東チモールに行く人なんて国連かジャーナリストか商売しているオージーぐらいなもので、これらの人達はこれまでに何度もディリ〜ダーウィン間を往復しているので顔パス状態になっているのです。そこに一人紛れた怪しいアジア人。問い詰めてみれば怪しさ満点の放浪者。
 このうすらでかい検査官の目は口ほどにものを言っていました。
「こいつは・・・黒だ★」と。

「なんだ、この棒は? 怪しい奴だ!」
 はい、ごもっとも。
「荷物はこの小さいリュックだけか? 大きなバックパックはどうした? これだけのはずがないだろ! やっぱり運び屋じゃないのか?」
 これだけの厳選された荷物で生活している洗練された旅技術を褒めろ!
「なぜ帽子で顔を隠している?」
 いやいや、深くかぶってるだけだっつーの!
「おまえの所持金はたったこれだけか? こんなに少ないわけがないだろ!」
 大きなお世話だ!
「無職だと? どうやって収入を得ているんだ? やっぱり運び屋・・・」
 やかましい!

 こんなアホなやり取りを延々とした後に、検査官がパスポートに貼り付けてある前回のオーストラリアヴィザにやっと気付きました。
「おまえ以前にオーストラリアに一年間も滞在しているじゃないか。なぜ隠してた?」
 テメーらがどうでもいいこと立て続けに質問攻めにしたんじゃねーか!

 オーストラリアでの一年間を話すと、
「じゃ、おまえはケアンズでツアーガイドをしていたのか? よし、じゃーテストしてやる」
 そう言っていきなりケアンズクイズ大会が開かれてしまいました。
 僕だって元ケアンズガイド。こんな所で負けるわけにゃーいきません。

 ジャジャン! 勝負の刻! やりたかないけど、やらなくちゃ。
 はい、やりました。さて、勝敗は?

 ほぼ全問、満足いくまで答えてやりました。答えられなかったことは、
「ケアンズ周辺の熱帯雨林の名前を3つ挙げてみろ!」
で2つしか出てきませんでした。そんなもの総称として‘熱帯雨林’でいいだろうが!
っていうか答えても、本当にテメーはそれが正解かどうかわかってるのかっつーの!

 すると今度は、いいガタイをしたこの筋肉馬鹿はこんなことを言い出しやがりました。
「今からここでケアンズバスガイディングをしてみろよ!」と。

 バスガイディング! それはケアンズ空港から市内のホテルまでバスでお客様を送迎している間にする案内トークのこと。これは、まずい! やれと言われればできなくもないが、僕が実際にやっていた案内は日本人客相手の日本語案内。でもここではこいつらに解かるように英訳しなくちゃいけないのです。そんなことしたことがない。
 バスの窓から流れるケアンズ市内の街並みを想いい浮かべながら、その場で必死に英訳ガイディングをしました。

 空港の入国審査カウンターのすぐ横ですよ。暇な空港スタッフ集まってきて、みんな聴いてやがんの。
「なるほどー。知らなかった」とかほざきながら。
 挙句の果てには、
「おまえ、英語ヘタだな。よくガイド務まったな」
 カッチーーーン! 大きなお世話だ。

 そんなこんなで、何時間そこにいたのか覚えていませんが、腹立たしい思いをして空港をでることができました。

 なにはともあれ、オーストラリア入国です。

 久々のオーストラリアでは何を見ても感動的でした。よくよく考えてみるとたかだか4年前の話なのですが、僕にとってはいろいろ環境が変わっていた4年間だったので長く感じたのです。
 何よりここは僕にとっての最初の外国だったので、当時刺激を受けたことが多い場所だったのです。

 その懐かしい中でも一際胸に沁みたのが‘ショッピングセンター’でした。

 ショッピングセンター。つまり食料を主に何でも安く売ってるスーパーマーケットのことです。僕のオーストラリアの1年間は料理に費やした時間が非常に長いものとなりました。定住していたケアンズはもちろんのこと、旅としてオーストラリアを回っている時にも宿にいる仲間を集めて一緒に食事をとっていました。食事を共にした後で割り勘をする。いわゆる食事シェア。通称‘シェアメシ’です。
 ほとんどの場合、僕が買出しと料理する作業をしていました。そこまでしてでもシェアメシをしたかったのです。利点は食費の軽減です。おかげで、ぶったまげるほどの安いコストで毎日たらふく食べることができていました。
 メニューはその日の特売品によって決められます。できるだけ無駄のないように、翌日やその次の日のことまで考えて特売品の中から買う物を厳選するのです。しかもそれをしながら、通常では他の物が平均いくらで売られているかも頭に叩き込んでいくという、いわゆる‘手練主婦’のようなデータ詰め込み作業をしていたのです。そうすると買い物時間も自然と長くなります。この時間は脳みそフル回転。

 僕にとってショッピングセンターとは‘ショッピングスタジアム’だったのです。

 そして今、再びショッピングセンターに足を踏み入れました。しかし以前とは僕の立場が違います。今回も僕は節約に励んでいるとはいえ、オーストラリアに備えて多少の余裕を持ってきました。金無し時代にできなかったことをしてみよう。買えなかった物を買ってみよう。食べれなかった物を食べてみよう。

 今回のショッピングセンターは、‘スタジアム’ではなかったのです。

 先進国の自動ドアをくぐり、カゴを手に「試合開始!」 じゃなくって、’たそがれ’開始です。

 そこにはあの時と同じような素材が同じような配列で陳列されていました。おもむろに特売品を手に取り、グラムと鮮度を製造・賞味期限をチェックします。つい、懐かしの習慣付いた動作をしてみました。

 あぁー、涙がでたね。

 手に取った商品を再びそっと棚に戻して、
「今日は特売品を買う必要はないんだよ」
と空っぽのカゴの柄を、汗と一緒に両手で握り絞めました。

 不思議です。商品に手が伸びないのです。何でも買っていいぞ! と自分が許しているのにもかかわらず、何を買っていいのか解からないのです。

 無数のビッグサイズの商品がびっしりと陳列されている背丈の高い棚と棚との間の通路で、一人立ち尽くして涙を堪えるトレッキング姿のヒゲ男に店員が寄ってきて、
「何かお探し?」と声を掛けてきました。

 僕は肩まで隠れるかの勢いで深く帽子の中に頭を突っ込んで、
「えーと、えーっ、う〜ん、ビッ、ビネガー味のポテトチップスを下さい」
と言ってしまいました。

 このビネガー味ってのがアジアでは見なかったし、オーストラリア当時お菓子なんて買ってる余裕はなかったので、つい口からそう出てしまいました。2袋入りビックサイズを買いました。
 結局そこで買ったのは、このポテトチップスと2本のバナナ。そして生にんじんでした。よく僕は生にんじん齧りながら旅をしていたのです。人間そう簡単には、ガラリと変われるものではないのですね。

 ショッピングセンターからの帰り道、溢れる余韻を押さえながらも今まで気にも掛けなかった‘お土産屋’や‘アイスクリーム&デザートショップ’等のいわゆる‘贅沢品’の店を違う視点で覗き歩いていたのですが、やっぱりここでも手が出せませんでした。

 宿に戻ると同室になった一人の女の子が話しかけてきました。
「こんにちは、何処からきたのですか?」
「東チモールからです」
 てっきりオーストラリア国内の移動だと思い込んでた彼女の目は丸くなりました。

 真っ黒に日に焼けた彼女を見て、一目で‘オーストラリアワーホリ’だと判りました。

「私、今ワーホリ○ヶ月です」
 うっふぁっ! この懐かしい会話に何かが体の底から溢れました。
 特別なことは何も無い普通の話題なのですが、何聞いても血が騒ぐのです。

 ビネガー味のポテトチップスを一袋彼女にプレゼントし、にんじんをナイフで剥きながら久々の現役ワーホリとのオーストラリア話に花が咲きました。

 その子と夜街に出た時に‘アイスクリーム&デザートショップ’が目に入りました。僕は思わず言いました。
「デザート御馳走するよ」と。
 日本ではなんてことないことに見えるでしょうが、節約に励む旅先では贅沢品には手が出せないし、ましてやおごったりおごられたりすることなどないのです。セントの位まできっちり割り勘することさえも極あたりまえのことなのです。
 もちろん彼女は断りましたが、そこはこっちが押し通す。好きな物を2つ選んでもらって残りを僕が食べました。

 ‘美味しそう’以上に‘嬉しそう’にアイスを食べる彼女を横目に、4年前の自分の姿をダブらせていました。

 一人では手を出しにくい、また自分だけのためには惜しむことにも、人のためになら不思議と踏ん切れるものですよね。

 学生時代もそうでした。自分のためには缶ジュース一本ためらうこともあったのに、後輩のためになら出費が少しも惜しくありませんでした。未来の自分の家族にもきっと同じ気持ちになるのでしょうね。

 持論ですが、
「需要と供給が重なった時こそ、最も充実した意味のある事がなされる時である」ような気がします。

 オーストラリアに入国したこの日、翌朝すぐにダーウィンを発ちケアンズに向かうことにしました。

 夜この彼女から渡されたものがありました。
 そーれーは、出会帳! はいっ、来たぁーーー!!!

 出会帳とは名前のまんまで、縁があり出会った人に別れの際に自分へのメッセージを書いてもらうもので、旅する者は所持している人が多く、とりわけワーホリの中では常識とまでされている制度なのです。手当たりしだい書いてもらっている内容のうっすーい物から、特に深く関わった人にだけに渡し、面と向かって言えなかった事や胸に秘めていた想いを書き綴ってもらう重い物まで、その濃度は人それぞれ。
 とは言え、書いてもらった人にとっては一生ものの想い出の一品となることは、間違いなしです。

 ただでさえ文章には熱を注ぐ僕にとって出会い帳を書くということは、その人と過ごした時間と内容、その全ての想いから生まれたものを具現化させることであり、一つの作品を作り上げることと同じなのです。
 だから一つの作品を仕上げるまでには2〜10時間は掛かるのです。こいつが原因で別れの朝には毎回睡魔と戦うはめになるのです。
 この日もそのまま朝にになってしまいました。オーストラリア初日から徹夜です。

 一期一会の別れを済ませ、僕もダーウィンを出てケアンズへと向かいました。

 ケアンズへは国内線の飛行機を使いました。皮肉にも飛行機のほうが安いのです。しかもバスだと約3日は掛かるのに、飛行機なら3時間です。東チモールから飛行機を使ってしまった今となっては、もうこだわる必要はありません。

 眠い目を擦りながらのほとんど記憶にないフライトでした。

 ケアンズに着きました。

 忘れもしない4年前のあの日、このケアンズ空港に下り立ちました。あの時もこの日と同じ季節で、眠ることを許されなかった体に活を入れながら、今と同じ太陽を見上げていました。
 今回下りた所は国内線でしたが、気持ちはオーバーラップせずにはいられませんでした。ツアーガイド時代に何人もの観光客を出迎えた、見慣れた国内線到着口。到着後1時間以上、空港内にて想い出に浸っていました。
 ケアンズ市内までのシャトルバスの中では、前日にダーウィン空港入国審査カウンターにて復習したばかりのバスガイディングをリアルタイムで流れる景色に合わせてイメージの中でバスの隅々まで響かせました。

 とりあえず街で宿を確保した後、H.I.Sオフィスに向かいました。僕が勤めていた時とはオフィスの場所が変わっていたので初めて見るオフィスの前で少し入るのを躊躇しましたが、現役ガイドの気持ちを奮い起こして足を踏み入れました。飛行機を使ってしまったので予定より早く着いちゃったなと思いながら入店すると、
「いらっしゃいませ」
という接客挨拶の後に、
「あっ! M.I、遅い!」
と僕を見つけた聞き慣れた声がしました。

 彼の名前は‘T.Fさん’。HISはガイドネームとしてイニシャルで呼び合うのです。だから僕は‘M.I’なのです。

 僕とT.Fさんは同期です。これにもう一人‘M.H’という最凶クラスの女を含めたこの3人が、当時仲良しこよしの同期ガイドだったのです。

「遅い? これでも飛行機を使ってしまったが故、予定より早く着いたのですよ」
 まだ営業時間内だったので徹夜明けの僕は一眠りしてから閉店時間に出直すことにしました。
「ダーウィンの宿でワーホリの出会い帳書いてたら朝になっちゃって・・・」
と眠気眼の理由を話すと、
「ホンマに全然変わってないなぁ」とT.Fさん。確かにあの頃からそうでしたからね。

 翌日から宿を出てT.Fさん家に居候させてもらうことになりました。

 ケアンズの街は幾つかの新しい建造物ができたとはいえ、あの頃の持ち味は何も変わっていませんでした。当時はせかせかと自転車で走り回っていたこの狭い街を、今は初めて来た時と同じように店一軒一軒を横目に覗き回りました。
「ケアンズから入国した者は、ケアンズをこよなく愛す」
とよく言いますが、僕は正に‘ケアンズっ子’です。

 ほんの数ヶ月前までは来る予定ではなかったオーストラリア。世界を回った後に最終地として足を踏み入れるつもりだったのに、タイでの従兄弟の結婚式がきっかけで予定より少し早くこの街を歩く機会がやってきました。
 今回は一週間ほどの短い滞在。でも僕の旅先の中で一つの街に一週間以上居た所なんて、本当に数えるほどしかありません。一週間が短く感じることからも、やっぱりここは僕にとって特別な場所みたいです。

 いろんなエピソードが蘇る街中。居候中に炸裂させる得意の家事。ツアーにも連れて行ってもらったし、海にもでました。社内パーティーにも出席させてもらいました。
 一週間この街をしっかりと堪能させてもらいました。

 早いもので帰国のフライトの時刻が迫ってきました。

 会社の車で空港まで送ってくれるT.Fさん。贅沢にガイドチャーターです。
 当時契約社員だった僕らは、このままビジネスヴィザを所得して会社に残るかどうかのお話がありました。ぶったまげかっ飛びそうだったぐらい嬉しかったこの誘い。
 頭はっちゃけそうなほど悩みました。しかし僕は旅をする決心をして日本をでたのです。今ここでいきなり落ち着いてしまうわけにはいきませんでした。ましてや最初の国で。
 この仕事と場所が僕の運命と結びついているのなら、またここに自然と戻って来ることになるはずです。

 選択の行方は・・・ 僕は旅に出ました。そして、T.Fさんはケアンズに残りました。

 同じ岐路に立った2人の男は、別々の道を選んだのでした。

 だからこそ今こうしてT.Fさんを見ていると、自分が進んでいたかもしれない‘もう一つの人生’と重なるのです。

 僕は自分で言うのもなんですが愛社精神抜群で、決心と覚悟の強さには自信があります。だからこそ、24時間会社の携帯電話に繋がれ毎日残業あたりまえで早朝からの送迎業務がちょくちょく入るようなシフトをヒョウヒョウとこなすT.Fさんに対しライバル心を感じると共に、まるで自分ががんばっているような立派なガイドの姿を見せてくれたことに感謝の念さえ生まれてくるのです。

 彼がここにいるからオーストラリアと繋がっているのかもしれません。少なくとも今回の来豪は間違いなくそうです。
 そして、HISとの繋がりがなかったら僕はケアンズに足を踏み入れた時に「帰ってきた」と思わなかったかもしれませんね。

 親友の一生懸命がんばる姿に感謝。
 親友との繋がりに感謝。
 親友の存在に感謝。

 人間一人じゃ当然生きていけません。っというより、一人より複数の人と影響を与え合ったほうが面白いです。

 ‘共同作業’という方法も素敵ですが、別々の仕事をする分業があり、その分けた相手の人生も自分のことのように楽しめたら・・・。うん、こらまった素敵。

 彼もまた、僕が送信してきた報告メールを全てプリントアウトしてファイルに綴じてこう言います。
「これは私の宝です。永久保存版ですよ」と。
 その‘行為’が僕にとっては‘宝’です。

 空港スタッフが‘早く行け光線’をバキュンバキューンと乱射させてきました。そろそろ限界です。今回伝えたいこともしっかりと伝えました。悔いは無いです。
 前回オーストラリアでのT.Fさんとの別れの時には、ガラにも無く僕はみんなの前で大泣きしてしまいました。トイレでこっそり涙を搾り出したはずだったのに。
 いろんなモノが付着して一回り大きくなったと錯覚している僕は、前回よりも落ち着いた気持ちで言葉をだせました。
「今回は泣きません」と。

「じゃっ、また数年後」
と気の利いた別れの言葉を交わすことなく、別れ下手な僕らはまた一つ区切りをつけました。

 そんなこんなでオーストラリア、出国です。

 いろんな国の報告メールを書き、その度にその国の言葉で挨拶をしてきましたが、一番最後の‘別れの挨拶’は今も変わっていません。
「SEE---YOU---」のオーストラリア訛りの挨拶で「SEE---YAA---」。

 SEE---YAA--------- オーストラリア!

 帰国前にここでちょくら整理体操。

 実はオーストラリアで買った帰国のチケット。なんとグァム経由のコンチネンタル便だったのです。

 ん? 僕がグァム? どーもしっくりこないですよね。
 しかーっし、こんな機会じゃないと一生ご縁がなさそうなグァム。どれほどのものなのか見ておかねばいけないような気が・・・。

 寄りたかないけど、寄らなくちゃ。
 はい、寄りました。さて、感想は?

 「ここは本当に外国なのか?」状態でした。擦れ違う人10人中9人が日本人。そりゃー看板も日本語ですよね。
 現地語であるチャモロ語を話す原住民なんて、街中ではほとんど見かけないし、「おっ!こいつか?」と思いきや、やっぱりフィリピン人。しかもなんであなた達、日本語で話してるの? って感じ。
 グァム在住出稼ぎフィリピーノ達は日本語で言います。
「日本人来なかったら、グァムはつぶれちゃうね」
 あんたらが言うなっつーの!

 旅では次に訪れる国の情報を、必ず少なからずはその前の国で調べていくものなのですが、グァムの場合は舐めて掛かりすぎていたため、空港を下り立った瞬間まで自分がグァムについてな〜んも知らないことに気が付きませんでした。
 空港の中で一瞬だけ不安が僕の背中をちょんちょんと突きました。
「あれっ? これからどこへ行けばいいんだ? 普通みんなどこへ行くんだ? 空港からメインの街まではどのくらい距離があるんだ? っていうかグァムってどのくらいの大きさの島なの? 島は一つなのか? ひょっとしたらハワイみたいに幾つもの島からなる諸島だったりして」
 僕が知ってたことといったら、USドルが使えるアメリカ領だということだけでした。
 めんどくさいことに空港内にてゼロから情報収集開始です。

 まずは宿。とりあえず聞き込みしてみたところ、あたりまえなのかもしれませんがここに安宿はありませんでした。

 空港に張ってある観光客用のグァム島地図で気になるものを一つ見つけました。
 それは、‘YOKOIケーブ’。
 ケーブとは洞窟という意味です。ものすごく小さいのですが、なにやら原始人のような一人の男の絵が描かれていて‘ヨコイケーブ’と絵の下に記されているのです。
「はっ! もしや・・・」
 僕は昔にいいかげんに耳にした記憶を掘り起こしました。
 そう・・・横井庄一です。

 第二次世界大戦の後、28年間グァム島のジャングルにて野人生活をして生きながらえ、1972年にやっとこさ発見・保護され帰国を果たした横井さん。その後は国から生活を保障され、1997年に87歳で亡くなりました。
 横井さんが発見されたことをきっかけに戦地に残された元日本兵問題に関心が高まり、1974年にルバング島で救出された小野田寛郎さんの帰国にも繋がったのです。
 そんなこんなで一躍有名人になってしまった横井さん。
「よっこいしょっ!」
と立ち上がるときに、
「よっこいショウイチ!」
と言うしょーもないギャグも生まれたほどでした。

 あの横井庄一に間違いないと思いました。すると・・・
「とっぴんパラリンぷぅー」
とけったいな効果音と共に僕の頭の上にある‘閃きの電球’が光点灯し、
「チャレンジ!」という文字を浮かび上がらせました。

 えっ? どうせ安宿が無いのなら一泊ぐらいその洞窟に野宿してしまえってことかい?
「なんでこんなリゾート地に来てまでそんな試練の道を・・・」と思いながらも腹の中では、もう決めちゃっていました。
 行き方の聞き込みを開始しました。すると・・・。
 あーらら、あらら、ヨコイケーブにはレンタカーを借りるかどこかのツアーに参加しないと行く術がないとのことでした。しかも当然かもしれませんが、そこには泊まってはいけないとのことでした。
 はぁ〜っ、がっかりやらホッとしたやら。

 しかたないのでタクシーを捕まえ、
「この街で一番安い宿に連れてってくれ!」
と言いました。シャトルバスも公共バスも走ってない空港からはタクシーを使うしかありませんでした。
 ふざけんな! っと思ったのはどうやら僕ぐらいなもので、普通はツアーのバスが送迎してくれるようでした。

 街はすぐ近くにありました。アジアの10倍以上の値段を払って‘ホテル’に泊まりました。ホテルですよホテル。日本人は 宿=ホテル と思っているかもしれませんが、とんとんとんと とんでもない。
 ランクを☆の数で表しているホテル。一つ星でもホテルはホテル。あたりまえの話なのですが、ホテルという‘称号’よりも下のランクの宿泊施設は存在します。
 ホテルの下が‘モーテル’。その下が通称‘BB’と呼ばれる‘B&B(ベッド&ブレックファースト)’。日本で言うなら‘民宿’でしょうか。その下が‘YM(W)CA’かな? その下がおなじみユースホステル。日本国内ではここまでぐらいでしょうか。しかし日本には必殺の‘カプセルホテル’がありましたね。外国人はカプセルホテル見て大笑いです。
「日本人、ここまでして働くか?」ってね。
 ユースホステルの下が‘バックパッカーズ’。さだかではありませんがバックパッカーズがあるのは先進国ぐらいでしょうか? バッパーの下が‘ゲストハウス’。アジアではこいつが一般的。
 僕が旅先で泊まっているのはこのゲストハウスの中でも底値中の底値の超ボロ安宿。そりゃー場所によっては水道も無いはずです。そんな僕がホテルです。

 想い出としてちゃんとハンドタオルを拝借してして来ました。このハンドタオルは次の旅にて、僕の所持する唯一のタオルとして大活躍してくれること間違いなしです。

 宿が決まれば街散策です。とはいえ、なんだ・・・店とホテルしか無いや。
 ビーチに出ました。イメージしていたリゾートビーチとは全然違いました。確かに水は透き通っていますがビーチは藻だらけ、海はナマコだらけでした。この時は6月中旬。時期によってはもちろんナマコはいませんが、そんなことはもうどうでもいいのです。たいしたビーチではありません。

 グァムで一つ気になったことがありました。それは観光客からイマイチ活気が感じられないということでした。観光客とはもちろん9割が日本人です。普通に海外旅行に行ったらお約束コースとは言え、もっと楽しそうに写真を撮ったり友達同士でキャピキャピして賑やかなもののはずなのですが、ここにはそれが少ないのです。ほとんどが、「ぐでぇ〜っ、ダラァ〜っ」です。
 もちろん全員が全員ぐでぇ〜っダラァ〜っではありませんが、楽しんでいるかに見える笑顔にどこか嘘臭さがチラついて見えるのです。集団で来ている人達の雰囲気から察するに、おそらく会社の旅行。もしくは何かの団体に属していてそこからの旅行であり、とても自腹を切って来ているようには見えないのです。
 もしかすると「マイレージポイントが溜まったので使っておこうかなー」パターンかもしれません。

 やっぱり「そこに行きたい!」ではなくて、「どうせタダだし・・・」や「付き合いも兼ねて覗いておこうかなー」程度の気持ちの姿勢では外見の姿勢にまでそれは現れてしまうもので、手ごろな場所ではあるけれどそういった利用のされ方が目に付く場所であることは、個人レベルの問題ではなく現状のようです。

 「ここはこういう所だ」と言い放ってしまう事もできます。が、せっかく飛行機に乗ってまで出かける機会をもてるのなら、一時的に現実を忘れる気持ちの休息を求めるだけでなく、異文化とまでいかなくとも自分の枠外の世界を見た時に生じる視界の拡大をして欲しいのです。そして、これから戻ってする生活の中で降り懸かってきたストレスに対し、いつでも「バホッと」開くことができる世界模様の‘折りたたみ傘’を手に入れて帰国することをお勧めしたいのです。

 間違ってもグァムという名前や‘海外でリゾート休日’という響きに浅く自分を納得させ、帰国後に世間に語る一見「オシャレな休日」話。
 そして「あら〜っ、いいわね〜」と羨ましいと思ってなくてもする‘あいづち台詞’。それに対し、本当は大したものではなかったと知りつつも優越感を得ているようでは、虚しいだけですよね。

 雨宿り島でも‘折りたたみ傘’は手に入りますが、う〜ん・・・ちょっと見つけにくい。

 街もビーチも端から端まで歩いた後、特にやることが思い当たらなかったのでタクシーの運転手達が溜まってくっちゃべってる‘サボり場’に行き、その輪に混ぜてもらいました。
 横井庄一の知名度は現地ではどの程度だろうと思い尋ねてみたら、5人中1人しか知りませんでした。後でホテルのフロントでも聞いてみたのですが、こいつも知らなかったのでひょっとしたら地元では大して有名でもないのかもしれませんね。
 僕が横井庄一のことを聞いたので知っていた運ちゃんが吹っ掛けてきました。
「何だ兄ちゃん、ヨコイケーブに行きたいのか? あそこには公共のバスも走ってないからレンタカーを借りるしかないな。だがな兄ちゃん、どうしてもって言うなら俺がUS100ドルで往復乗せてやってもいいぜ」

 あーぁ・・・片腹痛いぜ愚か者。これじゃ、インドネシアのコモド島への船渡しをする連中と同じじゃねーか。‘醜さ天下一武道会’で好成績を修めた僕を舐めるな!
 アメリカ領とはいえ、ここもアジアですね。

 出国の時間が近づいてきました。いつもせかせかしながら空港に向かうのですが、
今回はたっぷり余裕をもって出発を待つことができました。少しでも長くいたいという想いより、帰国への想いの方が勝っていたということでしょうか。
 たった一泊二日のグァムでの滞在。なのに東南アジアでの2週間分以上の費用がかかってしまいました。恐るべし観光地!

 オマケで添えようと思っていたグァム編でしたが、紀行文とも言えないような内容の割りには結構な量になってしまいましたね。未練無し! さらばグァム!

 そんなこんなで、ただいま日本。

 帰国したとは言え、日本での滞在期間は2週間あるかないかの限られたわずかな時間。ほとんどストップオーバー状態。この次の旅がこれまでの旅の集大成と言えるようなものになることは間違いないでしょう。この2週間の間に、その旅への準備をしなければいけません。

 今回のオーストラリアまでの旅には、小さなリュック一つで出かけました。普段僕が山に登る時の厳選された道具だけによるトレッキングスタイルです。贅沢を求めなければ旅に必要な荷物は本当に少しでいいのです。寒い地域でさえ現地で服を買って、どこかで売ればいいだけなのです。
 しかしながら、次回の旅にはいつもの巨大なバックパックを連れて行くつもりです。こいつは確かに重いです。中身によっては持ち上げられない男達に何人も会ってきました。それでもこいつは連れて行きます。

 荷物が小さく軽い旅は、本当に楽でした。

 そうです。楽だったのです。重い荷物を背負えば辛いのはあたりまえ。しかし、その方が自分が強くなれたような気がしたのです。
 旅初心者の頃は、この大きなカバンに詰め込み過ぎたいわゆる‘欲’と‘甘え’に押し潰されそうでした。

 当時思いました。
「こんなに沢山の道具がないと生活できないなんて、なんと自分は欲張りで甘ったれなんだ」と。
 旅が慣れるにしたがって荷物の中身である道具一つ一つに対し、
「これは必要。これは節約のために。これは甘えだ」
と自分の中で振り分けることができるようになり、さらに持って歩ける限界というものを知りました。

 山に登るときは必要最低限のみの厳選された道具しか持てません。厳しい基準で選ぶ作業を繰り返しました。こうして自分が持てる最大と最小を知ることができたのです。

 なんだかこの荷物論。ちょっと哲学的だと思いませんか?

 荷物の中の連れて行く道具を生きていくために必要な‘幸せ’として考えてみると、家族とか健康とかの幾つかの超重要なことだけでも十分生きていけるのです。ですが、それだけでなく‘何かの技術に磨きを掛ける’とか‘他人を喜ばせる技術’とかのいわゆる‘向上するための術’の量を増やせるだけ増やしていきたいのです。
 でも、増やしすぎると・・・潰れちゃいますよね。虻蜂取らずのただの欲張り。

 つまり、荷物に押し潰されるようなら、そいつはただの欲張りであり、多くの道具が無いと生活できないようなら、そいつはただの甘ったれ。
 必要最低限の道具に限界量まで‘勉強に役立つ物’や‘節約に役立つ物’や‘人を楽しませる物’を加えていく。そうして出来上がった巨大な荷物。こいつは決して‘お荷物さん’ではありません。
 自分を鍛えながらより多くの経験値を獲得するめの‘重い亀の甲羅’を背負った状態、もしくは巨人の星‘大リーグ養成ギプス’なのです。

 あぁ、これじゃ本当に‘亀仙人流の修行’ですね。

 一見同じような重い荷物を背負っていても、旅当初と今ではその中身が変わりました。

 ‘甘え’の物が無くなり‘志’に関する物に変わったのです。

 つまり‘重量’とは違う‘重み’が備わったのです。このことによって、荷物を背負うことに対する意識が変わりました。こうなってしまえば重さが快感・・・とまではいきませんが、重さが苦痛に感じなくなったのです。

 旅に出る前の準備の時、モンベルショップ(アウトドアーグッズショップ)で帽子を被り鏡を見て決意しました。
「今日から自分は鏡の中のこいつになろう」と。
 お馴染みの僕の服装にワンセットとなっているバックパック。こいつを背負って決意しました。
「これからこいつとやっていこう」と。

 それ以来自分がその姿になる度に、解かりやすい形で過去の自分の決意を目の当たりにすることができるのです。

 決意は今では‘誇り’となりました。
「この服装で行こう」
「このバックパックに必要な物と重要な物を詰めて行こう」
「できるだけ陸路で行こう」
「禁欲で行こう」
「お金に甘えない、厳しいものにして行こう」
「美しいだけじゃなく興味深いものに目を向けて行こう」、などなど。

 こうゆうものを総合して‘スタイル’と呼んでいます。

 このトータス(陸亀)スタイルに誇りを持って、これから再び旅に出ます。

「あれっ? どこかでナイフ強盗集団に襲われた時、手足を甲羅の中に引っ込めるようにしてビビりながら祈ってたっけ? あらあら、さっすがトータスくん」

 あ痛ぁーーっ!
 まっ、そうゆう事もたまにはありますが、自分の甲羅に閉じこもるようなマネだけは絶対にしないようにします。

 またしばらくの間、日本ともお別れです。

 どうせまた家族には気の利いた挨拶もせず出かけてしまうのでしょうね。
 いつも「無宗教バンザイ!」とほざきながら、各国の異宗教行事に首を突っ込んでいる僕も家に居る時は神棚に手を合わせます。
 聞くところによると僕が旅に出ている間、親は毎日神棚に手を合わせているらしいのです。

 ありがとう。自分の生き方を決めかねているノロマな息子は、再び祖国を離れ一回り大きくなってきます。ここ数年でも幾分大きくなったつもりですが、親から見たら役に立たない小さな‘ミドリ亀’なんでしょうね。

 日本で通っていた天文クラブも今回は更新しませんでした。年間更新の会員カード。今から2年以内は帰ってくることはないでしょうから。

 ひとまず、ただいまーっ! そして、行って来ます。
 次の報告メールはいつになるやら・・・。

 さて、帰国したばかりではありますが、この次は?

 極北を含む自然豊富な国、カナダです。いよいよアメリカ大陸に踏み入ります。ひとまずカナダで一年間、忘れた英語を思い出しながら旅の資金を稼ぎます。
 旅行業界でガイドとして働けたら幸いです。テロとSARSで騒がれたこの時期、ちょーっとキツイかな?

 どこに住むかは・・・まだ、未定。
 それでは、SEE---YAA--------
                     FROM まさし