2002年5月 再会の鎖 ■タイ編
 サワディー クラッ!
 うぉー 挨拶がやっとナマステから変わりました。

 長居したインドを後にし2年ぶりにタイへ再び入国し、バンコクのくっさい空気をとりあえずラマーズ法で吸ってみた まさしです。

 前回のタイ報告メール「そりゃないぜタイランド」より早2年。ずいぶんとここもキレイになりました。さらに驚いたことは、インドから来たためか2年前にはテコズッたタイ人達が、もぅ甘っちょろく見えてしょうがないということです。

「え!? そんだけしかボらないの?」
「もぅ、押売り終わり?」
 っと、なんだか拍子抜けしちゃいました。前回咳き込んでた街の酷い空気もへっちゃらぷーです。でもこんなことには、あまり慣れたくはありませんね。
 そういえば、バングラディッシュのダッカ、インドのデリー、そしてタイのバンコクと世界大気汚染地域ワースト3を僕は順番にたどって来ているのですね。
 なんて素敵なルート。
 伸びた鼻毛にキューティクルがかかっているのを昨晩発見しました。 ウソつけ!

 前回、一通り一周したタイにはもう特に目的は無かったのですが、長居することになった理由は、ひょんな事から僕の家族がタイに来る事になったのです。

 離れ離れになった家族を思い、耐え切れなくなってつい飛行機に・・・ っという訳ではなく、前回僕が訪れたガジャン村(通称首長族。英語ではロングネックとか言ってるのだが、やっぱりこれは少し失礼。正式名称はガジャン。パダウンとはミャンマー語でのガジャンの呼び名)に以前から行きたがっていたため、今回挨拶がてらみんなで行くことにしました。

 タイ北部の更に北西に入った村より、トラックで更に登って行く ホント奥の奥。

 場所が場所だけに、免疫のない観光客が滞在するのは、ちょっとキツイ状況。水や虫など病気の原因はそこらじゅうにある所です。 僕としても村のみんなに再会できてうれしい反面、不安も相当ありました。

 前回はテントを持って行き、
「テント持ってるから、しばらく生活を共にしたい!」
っと、直接村にのり込み、交渉し
「まぁ、うちに泊って行きなさい」
ってな具合に進めたけど、今回もアポ無し、しかも家族連れときたもんだから上手くいけるかどうかもわからないという状況。
 それに、憶えていてくれればいいけど、なんせ毎日マニアックなツアーの団体が訪れる、一応観光地。宿泊はせずチラッと見て帰っていく とはいえ、一日何十人もの観光客がやって来るのだ。憶えてろって言う方が無茶な話なのかもしれません。

 空港へ家族を迎えに行きました。

「なんだー、全然変わってないじゃん」
 ホットしたのかガッカリしたのか、よく判らない一声をくらいました。
 そりゃそうです。服装はおろかパンツまで旅立ちの時と同じ・・・ っていうか3年前と同じなのですから。

 唯一違う点は、あの帽子をかぶってないことぐらいでした。
 しかーし! 今回家族が同じ物を日本から持ってきてくれたのです。もちろん、色もサイズも全く同じ。なんだかずっと飼っていたペットが死んで、再び同じ種の同じ姿の動物を手にした時のような感じ。本当は違う、でも姿は同じの新しい仲間に、トビッキリのハグを。

 うちの家族の特徴「早口」で、互いの経過と情報を交換し一日を終えました。

 バスやトラックを乗り継ぎ目的地へ。そして溢れる懐かしさとドキドキを押えながら、恐る恐る村の中へ。 ・・・よかった。みんな 憶えていてくれました。

「まさしさん、あなたが来るのを我ら首を長ぁーくして待ちわびていましたよ」
 などと、こてこて挨拶は誰もしてくれませんでしたが、もぅ・・・うれしくって折るほどに抱きしめたくなりました。
 前回口のきけなかった子も口をきき、英語を話せずジェスチャーでしかコミニュケーションがとれなかった子供も英語を憶え、話が出来るようになっていたことなど、村は「人間のスピード」で成長していました。

 一周5分程の小さな村。30分もいればツーリストはする事がなくなり帰ってしまいます。
 ですが、僕らのいた約2日間は、のんびりの中にも迫り来る終わりに、「うたた寝の夢程の時」と化しました。

 英語もタイ語も話せぬ日本語を学びたがるガジャンの子供に、日本語を教える日本語しか話せぬ母。首輪は2つしか無いものの、ガジャンの民族衣装を纏う姉。これがまた似合う。伊藤家はみんな負けず劣らず首長いからねー。首長家族。
 姉は言う、「あんたの結婚式ぐらいかなぁー。この衣装を着る機会を姉に与えてよ!」っと。

 アガスティアの葉の予言に書いてあった僕の結婚は、後うん年後(ここヒミツ) って。
 ホントかなー? 誰だ相手は? どっかの民族かな? 日本人がいいや。

 ガジャン族の女は、村の掟と首輪のために国はおろか村さえも出る事は出来ません。

 一見あたりまえのように聞こえますが、僕の首には首輪はありません。

 日本に生まれ生活していくためには、厳しい日本社会という見えない首輪についた鎖が、文字どうりネックになることがあります。

 もし、自分が「鎖」を「錘」として感じてしまう時がくるのなら、その鎖は「言い訳」という素材でできているということを思い出すようにしたい。

 鎖の使い方は千差万別。時にはコミニュケーションをとる糸電話、時には信頼ある約束の証、時には大切な人と物を守る鎖かたびら。鎖の先には十字架がついてる物もある。

 自分の首に改めて手を当ててみる。見える首輪がない事に、とりあえず感謝。

 見えない鎖は自分で自力で手繰る。

 見える首輪を持っている彼女達。僕は彼女たちにこう言いたい。

「僕達は、この首輪のおかげで会うことが出来たのだ」、と。

 そう言った時に、相手に響くような接し方をこの先にもしていこう・・・と・・・ ここは僕の首にかかった見えない首輪に鎖として繋いでおくのです。これは重くない!

 村人との惜しむ気持ちたっぷりの別れ。再会は年単位で。

 満足したであろう家族と気持ちの良い別れ。再会は数ヶ月後の我が家で。

 聞くところによると伊藤家ではウサギを飼い始め、僕の部屋でウサギを飼っているとか・・・ ん? それって、俺の部屋、ただのウサギ小屋じゃねーか! オ、オレの愛部屋が・・・。

 っというわけで、再びバンコクへ戻って来ました。

 今回のタイでは前回宿泊した宿や世話になった人達に会いに回ったのですが、嬉しい事にみんな憶えていてくれました。服装が変わってないとか、杖を振り回してるとかの目立つ理由もあったでしょうが、前回の旅が人にインパクトを与えるような内容だったことを確認できた気がして嬉しかったのです。

 家族と会う前にバンコクにあるタイ式マッサージの総本山、ワットポーのマッサージスクールに通いました。予想はついていましたが、タイ式マッサージのレベルの低さにがっかりでした。
 とは言え、ちゃんと頂けるものは頂いてきました。卒業試験にもあったりまえだけど余裕しゃくしゃくで合格し、ワットポー卒業資格を手に入れました。履歴書にも書けるそうです。でもタイじゃ強いみたいだけど日本じゃねー。
 将司治療術にタイ式マッサージが加わりました。はい、ラーニング!

 もちろん最初の患者は、母親でした。

 今回僕にとって、タイは「再会の場所」となりました。今回も一息つく暇も無く一般の旅行者が楽しむバンコクの遊びとやらを覗くことさえできませんでした。

 さて、旅も後半、この後は・・・

 中国へ戻ります。適当に中国を南北にぶち抜きながら北へと進み、そのまま、国境もぶち抜きモンゴルまで行きます。
 はぁー、またあの中国人たちと、一もんちゃくやり合うのかー。
 中国語も思い出さなくっちゃ。英語とはしばしのお別れ。

 それではまた、メールがつかえるような中国のどっかの都会で。
 SEE--------------YAA----------
                        FROM まさし