2002年6月 第 三 世 界 ■中国編
 ニーハオ!
 今回の旅の出発地点である中国の北京に再び戻ってきた まさしです。

 旅、始めのあの時と今とではいったい何が変わったのでしょうか?
 僕がガラリ!っと変わることはないでしょうが、質と容量を増やすためには十分な刺激と長いようで短い考える時間により、基準が少し動いたような気がします。

 僕の中にある
「悪いところ」
の克服は、残念ながらまだ出来てないと思います。
克服できたなら世間で言う
「立派な人格者」
という履歴書にはかけない肩書きがもらえるのでしょうが、できないから人間らしい、赤だしくさい・・・、ヌカミソくさい故郷と姓と自分の味を周りの人に食らわせていられるのかもしれません。

 久々の中国人との戦いは、思ったほどの苦戦はなかったのですが、何度かいいようにやられました。中国語もけっこう残ってました。ネパール語、ヒンディー語、ベンガル語、そしてタイ語さえも早くも抜けかけているのですが、テレビを見ているだけで蘇る「きねづか」には、旅当初の意気込みと努力を再認識しました。

 旅中盤ごろから決めていた、今回の中国での課題は、
「中国人の良いところ」
と、
「なぜ、同じもめるにしてもインド人だと最後には笑えるのに、中国人だとむかつくのか?」
の2本でした。

 それでは、まず「中国人の良いところ」。

 中国人、はっきり言って駄目なとこだらけです。もし欧米人にアジア人として一くくりにされたら腹が立つほどです。それだけに、もし悪いところをもひっくるめて書いたら、1000キロバイトをオーバーしてしまうかもしれませんので、ここは前向きに「良いとこ探し」に徹しようかと思います。
 でも「いいところ」の基準は厳しくしないといけません。でないと、「ちょっと旅先で親切にされた」、「仲のよい友人ができた」、「何度も助けられた」という、勘違いしがちだが実はどこの世界でもそんなことはあるんだよ、という個人的で浅はかな主観が邪魔をするからです。

 その上での将司’s EYESの捕らえたいいところ。

 まずは‘熱中力’です。
 これは、‘集中力’という誉め言葉とは少し違います。悪い言い方をすれば、中国人、他人のことは御構い無しでしたいようにします。会話だってコミニュケーションと言うよりは、ぶつけ合いです。親切だって相手の要望をくみ取り助けてあげるというよりは、「助けてあげる」を向こうの基準でぶつけてきます。これは既に「おせっかい」に繋がります。バス一つ乗るのにも乗ることに熱中する、つまり押し合い圧し合いの割り込みが起こります。

 他人のことは気にしない・・・ 最高の誉め言葉で表現すると‘マイペース’です。

 「他人のことは気にしない」っと言っても、「他人のことは放っておく」のとは違います。

 なんだかんだと寄ってくる‘アジアの人だかり’のことを‘好奇心’と呼ぶ人がいますが、これは適切な表現だとは思いません。もし、パスポートやガイドブックを出せば、なんだなんだとすぐに誰かが寄ってきます。ここまでは‘好奇心’。
 でもここからです。こちら側が不快と感じるほど自分たちの欲求をふっかけてきます。
 隠しても覗き込むほどです。
「止めてくれ!  向こうに行ってくれ!」
っと言っても、そうはしてくれません。そして、飽きるのも早いのです。聞かれたことに答えても、すぐに興味が他へとそれているのが見てわかります。
 この一方的なやり取りを、
「好奇心 旺盛!」
などという誉め言葉に当てはめるにはよくないです。

 なんだか悪いことばかり言っているようですが、そうではありません。

 中国人と接した時、人は、
「熱い人種」
と感じてしまうでしょう。これは彼等が‘熱’をもっているからです。
 ‘温もり’という言葉は暖かく、その度の強いのが‘熱’です。

 ‘温’という字には、「さんずい」があり、乾いちゃいないのです。その彼等のもつ熱気と湿り気が、接した後に何とも言えない人間の温かみを理屈ではなく主観で感じるのです。
 もちろん‘火傷’もしばしば起こりますが、これらの中国人の熱力は、世界的にも十分特徴的であり、日本人にもある、本当は温かい心を持っているのに他人の目を気にするがゆえあまり手を出してこない、俗にいう「都会の冷たさ」とは相反 します。

 次に「継続力」です。

 継続を維持する事に長けています。
 無計画性により、ころころと変わって情報があてにならないという反するところもありますが、伝統や習い事など、総合的にみて優れていると思います。
 もちろんマイナスもあります。

 例えば「トイレ」。
 中国人、水洗トイレでうんこしても流さないんです。なぜ? 僕はこれがどーしても疑問でしょうがなかったのです。
 手を洗わないことは、まぁ 目をつぶろう。(ホ ントはこれも嫌!)
 ただでさえ世界でも有数の臭くて汚い、隣との隔たり・壁の無い奇妙なトイレ、せめて水洗だったらうんこぐらい流そうよ。コックを捻るだけじゃん。

 この疑問の答えは、新橿ウイグル地区にて日本語が話せる中国人から説明を受けました。
「流さないのは中年以上の人で、若者は流す。昔は水洗じゃなかったから トイレというのはうんこをしたらそのままで外に出て行く、というのが習慣だったのだ。だから、今もそうしてるだけらしい。彼等も臭いと感じているらしい。けど‘流す’という 一動作が頭にないんだよ。若者はもちろん、した後に一回、出る前最後にもう1回、と2回は流すけどね」って。
 なるほどーー っていうか、このバカ! そんな習慣維持すんなっ!

 なにはともあれ、山奥の民族ならまだしも、これだけモノがそろっている大国が長い間スタイルや伝統を保っているということは、すごいことかもしれません。

 はい、次、‘健康への意識’。

 年寄りを筆頭に、中国人の健康への努力を惜しまない姿はすばらしいです。
 ‘早寝早起き’を始め、太極拳、歩行、後ろ歩き、鉄棒、球技、そしてねじりまでもが 一般に浸透しきっているのです。僕も健康マニアの一人。だからこそ、そのすごさがわかるのです。
 僕はその運動が、どういった原理で どんな効果をもたらすかを実践と勉強にて知っています。彼等がそれを認識しているかどうかは別として、実行・継続していることは事実なのです。
 これには本当に驚きました。想像以上でした。ひょっとしたらこれだけでも中国に住む価値があるかもしれません。
 よくないことは、気をつけているのは肉体運動だけで、食品・バランス・添加物にはからっきし気をつけてないので、体に悪いものが散乱し食べまくりです。

 はい、次、‘人民 皆 家族’。

 僕が中国に来て初めて電車に乗ったときのことでした。
 東北に行くローカル線の長距離列車だけど、寝台ではなく硬い椅子の電車でした。
 最低ランクなので階級の低い人たちが乗っていて、さらに‘無座’といって席なしの乗車券だけを買って立っているか、床に座り込む人もいます。その時の列車は床全面が人でうまり、ギチギチでした。
 僕の周りの席の人達の面々が交代しているのに気づきました。長時間立ってたり床ではきついので定期的に代わってあげているのでした。僕にはどう見ても家族にしか見えなくて、仲のいい家族だなぁ、っとほのぼの感を味わっていました。
 そこで、
「僕もそのローテーションに入れてくれ」
と言って、子どもを抱いてたおかあちゃんと席を代わり立ちました。
 6時間ぐらい立ってたら、知らないおっさんが、
「替わってやるよ」
と言ってきました。
 僕は、
「ん!? 誰だコイツ?」
と思いました。この家族の一団の誰かが交代を申し出るならまだしも、全然知らない違う一行のおっさんだったからです。そこで僕は改めてみんなに聞いて回りました。
「あなたたちは、身内か友人じゃないの?」と。
 が、なんと全員が赤の他人でした。
 驚きです。どう見ても家族にしか見えなかったのですから。
 そうゆう場面をそれからローカル線に乗る度にちょくちょく見ました。
 この他人と家族のように近づける、
「人と人との距離の近さ」
に驚きでした。

 特に日本人が苦手とする初対面の赤の他人とのよそよそしい会話、これを日本では礼儀・マナーとされているけれど、それゆえ人との距離が遠くなってしまっているような気がしました。
 僕にも当てはまる事ですが、どうしてもきっかけや口実を求めてしまいます。
 そんなことはお構い無しの中国人。そう言えば、他のアジアでもそうでした。
 ん? 思えば欧米人たちもいつだってフランク。ひょっとしたら日本人くらいのもんなんですかね?

 以上の4点。
 もっと知っている人は、教えて下さい。できるだけ反論します。そして僕を負かして下さい。
 負かされる事を希望しています。

 もう一つの課題。
「なぜ、中国人ともめるとむかつくのか?」
 これは結構簡単でした。

 インド人が馬鹿すぎたのです・・・おっと失礼、正確に言うと、あまりのむちゃくちゃな理由と大人げない態度にあきれてしまうのです。インド人と中国人では、中国人の方がIQは高いと思います。それゆえ、ある程度大人として見てしまいます。そこで猿のような態度をとられたり、相手の理解度を超える早口とデカイ声でまくしたてられると腹がたつのです。
 そして人数。すぐに他の部外者が集まってきて混ざり、徒党を組みます。
 そうなってしまったらいくらこっちの筋が通っていても、語学の出来ない者にとっては確実に押されます。彼等の剣幕はすごいのです。

 僕は、同じ旅人にインドと中国の違いを何十人もの人に尋ねましたが、ほとんどが同意見でした。そう思わないと言った数名は、中国人とまともに向き合う事をはなっから拒否した人達でした。
「話にならない」とか、
「あいつらみんな猿だから」と。

 あと金に余裕があるため、だまされてもぼられても、「ま、いいか」で問題に視点を合わせない人達でした。彼等がもし、まともに向かい合わなきゃいけない状況になったら、いったいどんな対応をとるのでしょうか?

 この話はあくまで旅行者からみた意見で、住んでる人やある程度語学ができる学生たちは知りません。僕がきいた何人かの人達は、「慣れた」か「小さな問題はあったが、怒れるほどの被害にはあってない」でした。ちなみにこの「慣れた」と答えた人達は、問題に対して中国人とやりあうことをあきらめ、譲っている人達でした。

 中国を総合的に見て、僕が感じたことは‘人間味’でした。

 知能を持つ人間、動物的な人間、ズルをする人間、努力をする人間、仲間とのやり取りもあり、金にも執着し、食う、寝る、遊ぶ、全部ひっくるまった人間の世界を感じました。

 神の国 インド、 山の国 ネパール、 水の国 バングラ、 業の国 チベット、

 そして、人間の国 中国。

 最近また、‘万里の長城’に行ってきました。前回行った最西端の嘉峪関では、友人のドイツ人と自転車借りて長城に沿って走っていたのですが、見失い道に迷ってしまいました。
「宇宙から見れる唯一の人工建造物」
をこんな間近で見失うとは。しかも、世界でもIQの高さでトップを争う日本人とドイツ人が・・・。
 2人で腹抱えて笑った後、自転車引きずってガタガタ道をさまよいました。
 とはいえ、ちゃんと最西端に着け、そこは巨大な谷でした。長城はそこで切れていました。

 そして今回、最東端の老龍島、中間にあるもっとも高度にある司馬台に行ってきました。

 司馬台でも長い距離を歩きました。一見、果てしなく見える長城。嘉峪関から見た僕には確かに果ては感じられましたが、それは遥か彼方。

 すばらしい建物、美しい風景とは思えず、僕にはすごく人工的なものだと感じてしまいました。
 目的は、モンゴルからの攻撃を阻止するために端から端まで長い壁を建ててしまえーっ、というなんとも単純な中国的発想。大自然の中に権力の持った人間が浅はかな考えにより、犠牲もかえりみず建てたとっても不自然な遺産。

 人の・・・人間の中国ならではの「らしさ」香るシンボルでした。

 この前、英語の話せるちょっと知的な人のよさそうな中国人に会ったので、一緒に飯を食いながら今まで僕が持っていた中国への不満や問題をならべ、
「これについて どう思う」、と問いたところ。
「毛沢東の言葉で、この世には第一世界のアメリカと第二世界の日本と第三世界の中国、そしてその他の世界がある、というのがある。第二世界の人から見たらここのおかしなことが気になるだろうね。私は第三世界の人間だから確かにここは不便なことが多いけど、これが普通と感じてしまうんだよ。日本はいいなー。私は日本が好きだが、ここで暮らすよ」、と。

 意外な言葉だった。
 世界で我らが一番と考える中国人の中にもこうゆう人もいて、しかも毛沢東も自分の世界のことを第三世界と言ったとは・・・。

 あっ、もう一ついいとこ思い出しちゃった。

 人の目をまったく気にしない中国人は、歌上手。細かいリズムや音程は個人差があるとして、発声がすごくいい。普段デカイ声でホニャホニャわめき散らしてるっていうこともあるだろうけど、おそらくテレや人目といった声を出すのに邪魔になるものがないからだと思う。
 街中、店中、バスの中、いつでもどこでも歌い出す中国人。日本ならちょっと恥ずかしいよね。
 自転車にのってる時なんかに歌うたってて、いきなり現れた他人と会うと、
「やべぇ! きかれちゃったかな? ゴホッゴホッ! フゥフフーフーーン」
なんてな具合に、鼻歌や咳等でごまかしちゃったりなんかしちゃってさ。

 自由にどこでも歌の歌える第三世界。うん、ステキやね。

 欲張りが故、‘全部’が好きな僕。今回中国を全部回ることはできなかったけど、行き残した場所は次回の口実に。

 さて、 とりあえずの中国をかたづけたこの後は・・・

 予定通り、モンゴルに入ります。

 旅も終盤。 帰国前に最後の一暴れをしてきます。
 財布の中も・・・ うぅー、たったこんだけ。

 課題は、馬とホーミー。

 それでは。
 SEE−−−−YAA−−−−−−−
                        FROM まさし