HELLO−!
‘陸路でオーストラリア’を目標にインドネシアの島々を渡りきり、チモールにも入ることができたまさしです。
チモールは東西に分かれていて西チモールは未だインドネシア領なのですが、東チモールは2002年5月ぐらいに1つの国として独立してインドネシアの枠から抜け出したのです。
独立も容易ではなかったようで、1999年から3年間もの国連統治を経てやっとこさ独立できました。その間にも国内での紛争が絶えなかったことは世界的なニュースにもなりました。特にオーストラリアではもっとも身近な国ということで、インドネシアと東チモールの仲立ちをしていたので、独立するかしないかでニュースや新聞でもかなり騒いでいました。
結局独立できたのですが、その前後も何かと小さな問題が続き、ここ近年でも物騒な騒動が度々起こっていたようです。
別に東チモールに特別興味があったわけではないのですが、オーストラリアに一番近い所故通らざるえない所でもあるし、建国数年の新しい国とやらも見ておいてもいいかなーってな感じで、だんだんと関心も沸いてきたのです。
西チモールにいる間にも、東チモールの情報を得るために絶えず聞き込みをしていました。
「ここから東チモールに行こうと思うんだけど・・・大丈夫かな?」と聞くと、
「東か・・・。少し危険だがここまで来れたのなら大丈夫だろう。だが、あの国境付近を越えるにはオマエさん、神に祈る必要があるぜ」
と、言われたことがありました。
確か東チモールは国民の9割がカトリックの国。国境を越える前夜、僕は夜空に瞬く南十字星を見上げ、クリスチャンでもないのに十字をきって祈りました。
「どうかインタレスティングな旅になりますように」と。 あれっ? これってどうにでもとれてしまえる内容ですね。
うん、無宗教バンザイ!
西から東へは徒歩で国境を越えることができました。しかしさすがに紛争国境だけあって、そう簡単には通してくれませんでした。検問が厳しいのから緩いのまで、計4回ありました。検査官も結構ピリピリしている人が多く、そうゆうヤツに限って態度がすこぶる悪いのです。
今回はいつも背負っているデカい100リットル級のバックパックは日本に置いてきて、その付属品である小さなリュック、俗に言う‘小亀’だけ背負って来ました。
そのリュックに蠅叩きを差し込み、背負った状態で背中からジャキーン!と、蠅叩きを抜けるようにしていました。これが今回の持ちネタの1つで、検問で荷物を見せろと言われる度にジャキーンと蠅叩きを抜き、
「サムライです」、とほざくのです。
これまで大抵の検問でウケがとれたのですが、ここではそうはいきませんでした。
ジャキーン! 「サムライです」
の後、シーンとなっちゃうと、サムライ ちょっと辛いです。
「手に持っているのは何だ?」
と聞かれたので、解かっていながら、
「蠅叩きです」
と答えてやったら、
「そっちじゃない。反対の手に持ってるそっちの長いヤツだ!」
と杖を指してちょっと感じ悪く言われたので、僕もカチンときて、
「あっ、これか? これは落ちた帽子を拾うための棒だよ」
と言ってやったら、
「おい、おまえ。ここはそうゆうジョーダンは通じない所なんだぜ」
と睨まれました。
「あっ、はい、これはですね。日本の武道の稽古で使う棒でして、名前を‘ジョウ’と言います。私、ちょこーっと合気道を嗜んでいまして・・・いえいえそんな大して上手くも無いんですがね。下手の横好きで趣味とでも言いましょうか、コレクターの部類にでも入るのでしょうかね。どうぞどうぞ、ぜひ手にとってお調べください。ただの木の棒でして高価な物ではございま・・・」
「よし、もう行っていいぞ。はい、次!」
へんっ! 偉っそうに。最後まで言わせろっちゅーの。
そんなこんなで、東チモール入国です。
ここからはなんとUSドルの世界です。全くめちゃめちゃですよね。インドネシア・ルピアからUSドルなんて、ものすごいレートに差があるものに換えなければいけないとは。頭の中で計算する単位が変わるだけならともかく、実際の物価もUSドル単位の値段に急に跳ね上がっているから ビックリ シャックリ です。
どう見ても発展途上国の世界で、どれをとってもボロい物が先進国よりも高い値段でドルで付けられているのです。
国境を越えた後はすぐにバスに乗り、東チモールの首都ディリに向かいました。
ディリに着いたのは夜の19時過ぎてしまいました。気をつけていたものの、またまた新しい地に夜暗くなってから入ってしまいました。あらかじめ調べておいたディリで一番安い宿の前で降ろしてもらいました。西チモールでの前例があるため、今度はいつも以上に気を張っていました。
案の定バスを降りた時点でガラの悪そうな若者2人が声を掛けて来ましたが、有無も言わせず杖をブンブン振り回して早歩きで逃げました。
すぐに宿の中に逃げ込みチェックインしようと、大声を出して店員を呼びましたが誰も出てきませんでした。しばらく宿の中を散策させてもらうと、シャワー無しはもちろん水道も出ない‘溜め水式’で沈殿物ブヨブヨもんでした。蚊もブンブンでゴキブリもカサカサしていました。こんなことインドネシアではあったりまえだったので気にも止めてなかったのですが、この店の主人が帰ってきたので値段を聞くと
「8ドルだ」、と言うのです。
8ドル! 日本人にはピンとこないかもしれませんが、インドネシアや西チモールで言えばトイレ・シャワー付きの個室部屋の料金の3倍近い値段なのです。なーのーにー、ここは水も出ない。
しょうがないけど泊まることにしました。
食事をしてなかったので、この辺に食堂はあるのかと聞くと「無い」と言われ、
「外に出るのは物騒だし、うちは食堂も兼ねてるので何か作ってやるよ」
と言うので、
「メニューを見せて」と言うと、
「そんなものは無いよ」
「じゃ、どうやって注文を取るんだ?」
「おまえさん、卵は食べれるか?」
「うん」
「よし、待ってろ」
そうして20分後に出てきた料理は‘ゆでたジャガイモ’でした。な〜んや、それ!
次の朝、早々その如何わしい宿を出ることにしました。出ようとする僕に主人は、
「もし泊まる所がなかったら戻って来い。こっちのこの部屋なら4ドルで泊めてやるぞ」
そう言って見せられた部屋は、一畳半ぐらいのゴミの散らかったコンクリート床のスペースでした。部屋というよりクローゼットか納戸です。
「僕を監禁でもする気かい?」
と、出掛かった言葉を朝食代わりにゴクリッと飲み込んで宿を出ました。
海沿いにあるディリの街中の風景は一見ケアンズを思わせるのですが、よく見ると質が全然違いました。店はホントに数件あるだけ。ゴミは散らかっていて道端には人がしゃがみ込んでいるものの、人通りは多くないのです。
メイン通りとやらに行ってみました。そこには小さな交差点が1つあるだけで、その付近に小さなスーパーマーケットが2つ。品揃えは最悪。服屋が4軒。しかし内容は4軒ともまったく同じです。他はわけのわからんショップが数軒あるぐらいで、10分で回りきれてしまいました。もちろん全ての店がドル払いで高いのです。
本当にたったこれだけの街なのです。
この街で一番目に付くのは、なんと言っても‘UN’。そう、国連です。
アフガンニュースとかでよく見るあの‘UN’とでっかく書かれた国連車。ここは5台に1台は確実に‘UN’です。
歩行者もそうです。迷彩服を着込んだアーミー達で街は成り立っているのです。日本の自衛隊も沢山いました。
物騒な所のはずですが、これはある意味安全です。なんせそっこら中にうじゃうじゃ自衛隊がいるのですから、‘全員警察’それに近いものがあるのです。まさかここまで軍隊に占領されている所だとは思いませんでした。
僕はディリ滞在中、ほぼ毎日宿を替えていました。もちろん経験・調査のためです。
その度に宿の主人からは、
「あんたは軍隊か? それともジャーナリストか?」と聞かれるのです。
それもそうです。こんな所に来るのは軍隊かジャーナリストしかいないのですから。どうやらジャーナリスト割引があるみたいだったので、ジャーナリストということにしておきました。
それにしても、とにかく変な所です。
言語は一応‘テトゥン語’というローカル言語があるようなのですが、東チモールは元はポルトガル領だったということでポルトガル語もよく使われていました。なのに貨幣単位はUSドルなので、国連や公共の建物、ホテル等ではあたりまえのように英語が話されていました。そして見るからに身なりが汚い人達は、なんと西チモール同様インドネシア語しか話せないのです。 つまり、言語がバラバラなのです。
街にある大きな建物はホテルが2〜3軒あるだけで他は国の建造物だし、市内にも郊外にも見所は一切無く、もちろんポストカードなんてあるわけがありません。
30分も歩けばすぐ街から外れ、そこには家畜の動物達が放し飼いにされ全裸の子供達が走り回る‘典型的発展途上国’があるのです。
街中にも郊外にも、妙に丈夫な作りの有刺鉄線が厳重に張り巡らされていることにも目が止まりました。
バスなんか通ってるはずもなく、移動はボロボロタクシーが基本で近くても遠くても1ドル取られるのです。これ、ちょっと痛いです。1ドルを安く感じる人もいるとは思いますが、発展途上国の金銭感覚ではUS1ドルは大金なのです。
1ドル以内で買える物は山ほどあります。しかし、ここではめんどくさいからかどうかは解かりませんが何でも1ドルで、街全体が1ドルショップみたいなものなのです。つまり1ドル以下で用が足りることにも1ドル使ってしまうのです。
そんな中、ちょっと例外な連中もいます。街のあちらこちらに煙草やジュースを乗せたリアカーを引っぱってそれらの商品を売っている連中がいます。彼らは見るからに貧しい身なりをしています。彼らの売る商品は東チモールの中では極端に安く、ビール以外はほとんどセントで買うことができるのです。
そんな彼らの話す言語は、インドネシア語なのです。
ディリの街にいる人種をまとめてみると、
国連は、おそらくアメリカ人と日本人。
ホテルや店のオーナーは、オーストラリアから商売目的で移住してきた商人。つまりオーストラリア人。
貧しい商人は、ここに残ったインドネシア人。
村にいるのは、原住民であろう東チモール人。でも言葉はテトゥンとポルトガルの2種類。
そして、外国人旅行者無し。
と、こんなところです。
さらにまとめて書き出すと、
人種バラバラ。言葉バラバラ。
貧しい発展途上国。なのに物価は高い。
街中は安全。でも郊外は危険。
見所無し。イベント無し。アクティビティー無し。だから旅行者も無し。旅行者を受け入れる体制も無し。
この近辺の島々との生活習慣での大差も無し。
トドメに歴史も無しときたもんだ。
こうなると逆に‘いいトコ探し’、もしくは‘特徴探し’がしたくなるのです。
さぁ、何がある?
自然が豊富! でもこの辺はどこでも豊富なのです。
一つだけ気になることがありました。すごく素朴で単純無知な疑問なのですが、
「なーんでこの国、独立したの?」 でした。
ちょっと‘うんちく’を語ると、東チモールは16世紀からポルトガルの支配を受けて、1942年には日本による占領も受けたらしいのです。そして、1974年からインドネシアによって治められ、かなり邪険な扱いを受けたようでした。
1999年に国連が実施した住民投票で、大多数の独立希望が明らかになったのです。しかもその直後から、インドネシア軍と併合派の民兵が力でもってねじ伏せようと焦土作戦などを展開し、破壊活動を行ってきやがったのでした。
こりゃ、確かにたまりません。でも世界にはたまらん話が結構ゴロゴロしているものです。この小さな島の、しかもその半分だけの人達が何をもってして一大決心を踏み切ったのか? 気になったのです。
‘why’見つけ‘because’を聞く! これ僕の旅の基本。
はい、聞きました。 ・・・聞いたんだけどねぇ〜。どうもイマイチ「これだ!」ってな返答が無いのです。
「どうしてこの国、独立したの?」と質問すると、
「インドネシアと考えが違うんだよ。独立するって言ったら嫌がらせも受けたしね」
と9割以上がこの答え。
「じゃぁ、どう考え方が違うの?」と突っ込んでも、ここから先はみんな口をつむってしまうのです。
口で説明することが難しい問題なのでしょうか? それともただ単に、英語が話せる人は外国人で詳細までは知らず、地元の村人やタクシーの運転手、乗り合いバスの乗務員程度の英語では上手く説明できないだけなのでしょうか?
なにはともあれ、通訳でもいれば話は別ですけど、庶民の聞き込みレベルでは真相が掴めなかったことは事実です。図書館やネットで調べることも可能だし、その方が正確な情報が得られるのでしょうが、そうではなくて見た目でも判るぐらいの現地で起こっている状況や、一般市民の人達が騒いでいる内容を直接聞きたかったのです。
せっかく現地にいるんですからね。これもその土地を感じるのに役に立ってくれるはずでしょう。
解からなかったら解からなかったでそれでいいんです。情勢はいつでも資料で調べることができるのです。
僕がしなくちゃいけないことは現地人との接触と、それによって生まれる‘超ローカルな情報’と、僕の感性で感じた‘たわごと’をみんなに伝えることだと思っています。どんな影響があるかは、さっぱり解かりませんけどね。僕の報告メールは教科書でも新聞でもないのですから。他の資料と内容が同じものになってしまうことは避けたいのです。、本当に東チモールの情勢や政治レベルでの仕組みを知りたければちゃんとした文献を読めばいいことなので、ここでは僕が直接ここの地元の人達と触れ合って感じた印象から、独断と偏見を織り交ぜながら想像してみることにしました。
東チモール人、とっても静かなマイペースな人達に見えました。珍しい旅行者に向かって集まってくることもないし、話かけてくるそぶりも無い。話しかけてもイマイチ反応がぱっとしない。井戸端会議はもちろんのこと、街中を見てても人と人との会話も少ない。
干渉することも干渉されることも嫌う人種のように見えました。
東チモールは元ポルトガル領であり、西チモールは元オランダ領だと聞きました。
そんな隣同士でさえ異なった文化を持ったチモールという島を、異文化の集まりであるインドネシアが統治していたのですから、上手く噛み合わなかったことは察することができますよね。
一見無関心にも見え、熱帯地域なのに‘熱さ’を感じるどころか逆に冷めてるようにも感じられた東チモールの人々ですが、あちらこちらの広場で怪しげに集会のようなものが開かれていることから想像すると、ただの無関心な人々ではなく、何か他の重要なことに関心を寄せているが故に、‘今は口を閉ざす時’と何かを企んでいるようにも見えました。ちなみにその集会は近寄れる雰囲気ではなかったし、何を言ってるかもさっぱり解かりませんでした。
つまりここにあるものとは、・・・‘企み’、とまでは言わないけれど、‘反骨精神’や‘強い希望’もしくは‘可能性’。もっと言うなら、インドネシアの枠から一歩踏み出したチャレンジ精神! ってなとこでしょうか。ふぅー、これが精一杯。
NGOなどの世界規模の団体も様々な活動や呼びかけに力を入れているようですし、東チモール自体もこの辺一帯で収穫できるコーヒー等の産物を武器にがんばっていました。まだまだ先の話でしょうが、ヒンドゥーやイスラム諸国よりかは変貌の兆しが強いのではないでしょうか?
東チモールに関しての説明はこれぐらいにしておきまして、忘れちゃいけない、‘オーストラリア行きの船’こいつを探さなければなりませんでした。僕の一番の目的は、これなのです。
最後の一踏ん張り。やらなくちゃ。
はい、やりました。さて、結果は?
船会社、全社全滅でした。とりあえずオーストラリアに行く客船は一隻も出てないとのことでした。
そーんなこと言われてすんなり引っ込んでたまるもんですか! 信用もできないしね。
ってなわけで、船関係の会社を片っ端から当たっていきました。全社貨物用の船会社でしたが、無理は承知。
「僕を荷物と一緒に乗せてくれ! えっ、ムリ? そこをなんとか!」
「おいおい、オマエの言ってることは国際的違法行為だぞ。大使館行ってこい」
望むところだ! 大使館行ってきました。
「えっ、船? キミ・・・、アホ?」
とまでは言われなかったですが、あっさり「無理!」っとね。
あぁーぁ、ここまで来たのに・・・。
ガックリと肩を落とした僕に、
「なぜ飛行機を使わないんだ?」
と当然の疑問を問いかける大使館並びに船会社従業員達。
そりゃそうだ。飛行機なら1時間半。船なら最低2日。ましてやこれは貨物船。乗り心地は最悪。従業員といえども真っ平御免のハズレくじ。
「それよりなんでオマエここにいるんだ?」と言われる始末。
「はい、こだわりです!」。理解できるわけがありませんよね。
そんなこんなで・・・はい、撃沈!
ここまで来るまでの間にいったい何十人のインドネシア人&東西チモール人が「オーストラリアには船で行ける行ける」とほざいたことか。
そんな砂粒のような小さな可能性をかき集めて作られた砂浜。そこに指から血が出るほど力強く深く掘り描き上げた、傍から見たら‘らくがき’にしか映らない夢の作品は、儚く世界の波に掻き消されました。
ディリに一社しかない旅行会社で航空券を買いました。
元はと言えば、今回の旅の計画自体、あるかどうかも判らない航路をらくがき程度に描いた航海図を握り締めて出てきたようなもので、なんの保証も無い無謀にも思えるものでした。
旅をしながらその航海図を眺める度に愛着もでて夢も膨らみ、「この地図は本物でした」と言いたいがための達成を兼ねた確認の旅にもなりました。
結果、この航海図は達成できない‘らくがき図’ということが確認されたわけですが、ただの意味の無い落書きではなく、ここまで旅を進ませるための‘道しるべ’となっていたのです。
道しるべとなった‘らくがき航海図’は僕の宝です。こいつを眺めながらここまで来る間にも、幾つも宝を見つけることができました。描くだけ描いて満足に活用しなければ、それこそ‘ただの落書き’。
ん? 自分で勝手に描いといて、しかも達成されなくっても・・・それが宝になっちゃうの? うん、ポジティブ。
目標という宝を得る予定で、自分が自分のこだわりの下に描く地図があってもいいんではないでしょうか?
空港にて忌々しくも見えた乗客十数人ぽっちしか乗せなかった小さな小さな飛行機は、優しく僕に語り掛けました。
「お疲れさん。おまえはよくやったよ。これからもダメだった時はいつでも飛んでやるから、やれると信じて動いてみるチャレンジ精神と行動力を忘れんなよ!」
と。
「うぅぅ〜っ、飛行機ぃ〜っ」
たった1時間半のフライトで、出るはずのない機内食の代わりにポテトチップスとチョコバーを3回も御代りしました。
うん、懐かしのオージーテイスト。
何回乗っても飛行機からの眺めは高いです。苦労して進んできた島が一望できます。
しかしながら、僕の頭の中にあるワールドマップは、それよりもっと高いです。その高さは自分の中にある志と比例していると実感しています。高ければ高い所ほど臆病な僕は、すぐに手に汗握ります。
まぁ、その時は狭いパーソナルスペースで集まってきた嘘吐きヤローどもにでも擦り付けてやります。
地球規模での視野と手の汗を擦り付けられる距離での触れ合いを、この先も心がけていきます。
あばよっ! 東チモール。
いつか先進国の仲間入りしたら、その時は船でその成果を見に行くかもしれません。
さて、とうとう飛行機を使ってしまったこの次は?
第二の故郷、オーストラリアに帰国です。目的はただ一つ。親友との再会です。
それでは、SEE−−−YAA−−−−−−−−
FROM まさし